慶應SFC小論文 過去問答案例・解説

慶應義塾大学 経済学部2015年 答案例・詳細解説

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慶應SFC小論文の駆け込み寺

慶應義塾大学 経済学部2015年【問い】

設問A

「大学での教育の目的は、知識を授けることである」という見解についてどう考えますか。課題文に基づき、知識の特徴を知恵および情報と比較して述べた上で、300字以内で書きなさい。

設問B

知識は人間だけによって創られていくのだろうか。あなたの考えを、それに至った理由を付して300字以内で書きなさい。

慶應義塾大学 経済学部2015年【答案例】

設問A 解答例

 「大学での教育の目的は、知識を授けることである」という見解は正しいと考える。知識とは、自己の中に形成されるものであり、常に新たな側面に触れ続け、その側面を自らの知識に組み込み、拡大し続けることを特徴とする。これは、新たな側面に触れず拡大することのない知恵や、普遍性・客観性を特徴とし、蓄積されることのない情報とは異なるものである。知識が必要である理由の一つとして、今日の情報環境を考える。知識はコンピュータでは生産できず、知識を持たない人間は情報環境に適応できず、情報やその背後にあるグローバルな権力に支配されるだけの存在になるだろう(従属主体化)。必要なのは実存に基づいた知識(経験値)である。(297字)

設問B 解答例

 現時点では、知識は人間だけによって創られてゆくと考える。知識とは、常に新しい情報(他者の他者性)を受け入れて(受苦)、自己革新に努めることを特徴とするものである。すなわち、知識は実存としての人間と人間、他者としての環境との関係性からしか生まれないのである。なので、他者との関係性の中で生き、他者との相互交渉が可能な実存としての人間によってのみ、知識の創造が可能である。ただし、人間が自己の規範を超えた側面に触れることをやめれば(近代的理性)、知識の創造はできなくなる。ただ、今日の人工知能の発達を考えると、コンピュータが知識を生産することができないとは言い切れない状況である。(288字)

慶應義塾大学 経済学部2015年【解説】

課題文の解説

第一段落

知(knowing)をその働きの方向によって分類すれば、情報(Information)と反対の極を目指すのが、知恵(Wisdom)だと見ることができる。聖書の知恵、長老の知恵、おばあさんの知恵という言い方が暗示するように、それは時間を超えた真実を総合的にとらえるものとして理解されている。知恵は深い意味で実用性を持つが、およそ新しさや多様性とは縁がなく、それ自体が内部から自己革新を起こす性質にも欠けている。知恵は永遠であり唯一であり、その内部にも多様化への余地を許さない統一性を保っている。そしてこのように比較すると、普通に知識(Knowledge)と呼ばれる種類の知は、構造と機能のどちらの面でも、この知恵と情報の中間にあると考えられるのである。

「知」というもののあり方について述べている。まず、「知」というのは「情報」、「知恵」、「知識」の3つに分類することができ、その3つの知の関係性は次の通りである。

(知恵)←―――――(知識)―――――→(情報)

「知恵」と「情報」は対極の位置にあり、知恵と情報の中間地点に「知識」が位置づけられる。

知恵は「深い意味での実用性」、「新しさや多様性とは縁がなく、内部から自己革新を起こす性質がない」、「永遠であり唯一であり、多様化への余地を許さない統一性を保つ」ということを特徴とする。

「深い意味での実用性」とは、時代の変化に関係なく、いつの時代にも当てはまる、人間の本質的なことなのだろう。「新しさ多様性とは縁がなく、内部から自己革新を起こす性質がない」、「永遠であり唯一であり、多様化への余地を許さない統一性を保つ」とは、既存の知恵に新たな側面が組み込まれて、知恵が多様化することがなく、常に統一されているということだろう。

この知恵の特徴より、明確な記述がない「情報」についてもある程度推測することが可能である。知恵が「永遠」、「唯一」、「統一性」を特徴とするのであれば、情報は「変化」、「多様」、「断片性」という特徴があるのではないか。

情報は常に変化し、同じ事柄に関するものでも様々な情報が存在し、過去の情報に積み重ねる連続的なあり方ではなくそれぞれが断片的なのであろう。

九行目

知識は断片的な情報に脈絡を与え、できるだけ広い知の統一性を求めるとともに、できるだけ永く持続するものにしようとする。

ここでいう知識とは、教養に当たるものであろう。自己の中に幅広い教養を持って情報に接すれば、本来断片的であるように思える情報も、脈絡のある体系的な理解が可能であるということである。これに関しては、日常生活において経験したことがある人が多いことだろう。

その後の「できるだけ広い知の統一性を求めるとともに、できるだけ永く持続するものにしようとする」であるが、「できるだけ永く持続するものにしようとする」というのは「知恵」が持つ側面を「知識」も持っているということであり、「できるだけ広い知の統一性を求める」というのは、「統一性」という観点では「知恵」と同じ側面を持つが、「知の広さ」は異なっているということである。

というのも、「知恵」というのは「唯一」の「知」のあり方であり、多様性は存在しないため、これは「狭い」知のあり方だということができるのではないだろうか。「できるだけ広い」という表現をここで使っているのは、“知恵との対比”を意図しているのであろう。

よって、「できるだけ広い知の統一性を求める」というのは、統一性という点では「知恵」と同じであるが、その統一性は「知恵」よりも広い範囲に対応する点が「知恵」とは異なる点であり、これが「知識」が「知恵」と「情報」の中間たらしめている理由の一つなのであろう。

十行目

その点では、明らかに情報よりは知恵の方向を目指しながら、しかし知識はその内部に多様な情報を組み込み、全体としては分節性のある構造を作り上げる。

十二行目

知識は絶えず新しい情報を受け入れて自己革新に努め、同時に古い知識との連続性を維持しようとする。

「知識」は「情報」を組み込んで自己革新に努める。「知恵」は新たな側面を組み込むことをしない、すなわち、アップデートしない。「情報」は断片的であり、それぞれの情報の間には関係性は存在しない。これに対して「知識」は「知恵」を骨として、「情報」を肉付けするようなイメージである。

「分節性」と「連続性」とあるが、これは「知恵」と「情報」には見られない点である。知恵は唯一のものであるため、「分節」を作ることもなければ、「連続」することもない。逆に情報はたくさん存在するが、それぞれが独立しており、断片的なので「分節」も「連続」もない。これらを体系づけるのが「知識」ということになる。

断片的な「情報」に秩序を与え、「知恵」のように永く持続するようなあり方で、自己の中で拡大してゆく、これが知識のあり方である。

十三行目

一方、内側にも外側にも複雑な脈絡を持つ知識は、情報よりも知恵よりもそれを理解するのに努力を必要とする。さらに実用性という点から見ても、知識はこの二つに比べて効用がわかりにくいのが特色だと言えよう。

これは「知識」というものが、大衆社会においてあまり好まれていない理由なのであろう。このような煩わしさを乗り越えてまで、知識を獲得する利点があるのだろうか、というのがこの小論文において考えるべきことなのである。

「情報」を盲信して行動することは、知識を獲得するプロセスに見られるような努力を必要としない。思考停止状態で居られるのでこれほど楽なことはない。現代人も、スマホから流れてくる膨大な「情報」を規範として内面化し、特に自分の頭を使って考えることもせず、行動する。その情報を超えた側面に触れることはない。

これは人間がスマホによりもたらされる情報に支配されていると捉えることができ、それはつまり、情報の発信元であるGoogle等のグローバルな権力に支配されていると考えることができるのではないか。

近代の国家性が解体し、グローバル化により多様性のある人間社会が実現したように思えるが、実際のところ、グローバルな権力により発信される情報を超えた側面を考慮しないうちは、一つの権力を絶対化しているという点で、近代国家となんら変わりはないのである。

この出題は2015年のものであり、スマホが普及し始め、一般人にとってインターネットというものが身近になりつつある時である。今後訪れるインターネット社会における、「人間の従属主体化の危険性」を考慮しての出題であったのかもしれない。

十九行目

だがその反面、知識は最初から絶えず情報に背後を脅かされ、体系的な統一性を試される宿命を帯びていた。十八・九世紀は新発見の時代でもあって、理論的な知識はそれに合わせて絶えず組み換えを求めれたからであった。

「知識が情報に背後を脅かされる」とあるが、これは知識の特徴が故、起こることである。というのも、知識は自己の持っている知識に、新たな情報を組み込んでいくことで、自己革新してゆくことが求められるため、情報自体がアップデートされた際にはそれを自身の持つ知識に組み込む必要がある。

「十八・九世紀は新発見の時代でもあって、理論的な知識はそれに合わせて絶えず組み換えを求められた」とあるように、科学における新たな発見があれば、それにより新たにもたらされた情報を知識に組み込まないと「知識」は「知識」であることができなくなるため、新たな情報が生み出されるたびに、自分の知識をアップデートしなくてはならなかった。

情報を知識に組み込むのは、個人の営みであり、情報を組み込むことの知識のアップデートは、その知識を持つ全ての人において体系的行われるとは限らない。これが「知識」の持つ難しさであり、新発見の時代においてはより一層困難を極めたように思われる。

これが、「絶えず生み出される情報に脅かされる」ということなのである。

二十二行目

これに加えて、ここで特に注意しておかなければならないのは、20世紀の大衆社会の反権威主義的な気風である。古い特権的知識人が死に絶え、いわゆるインテリゲンチャも消滅する中で、「啓蒙」という権威主義的な言葉も時代遅れになった。人々は知的財産の平等な所有は求めながら、誰かに教えられ指導されることには潜在的な嫌悪を感じ始めた。

三十行目

この矛盾した感情を前にして、またしても有利なのが情報であることは言うまでもない。

「知識」という知のあり方が煙たがられ、「情報」がいわば“市民権”を得るようになった時代背景である。

今回はあまり問題ではないが、この文章には矛盾点があることに気づくべきである。後の文章で「彼らの知に対する矛盾した感情」という記述はあるが、どこが矛盾しているのかがわからない人も多いだろう。

「反乱学生の自主解放講座の設立」に対応する「この矛盾した運動」と、「彼らの知に対する矛盾した感情」は別物であり、前者だけを理解して、全てを理解した気になってはならないのである。これには2つの矛盾点が存在する。

この文章によれば、人々は「反権威主義」を掲げて「啓蒙主義」に反対する。

「人々は知的財産の平等な所有は求めながら、誰かに教えられ指導されることには潜在的な嫌悪を感じ始めた。」とあるが、「知的財産の平等な所有」を求めるのであれば、「教えられ指導されること」を拒んではいけないのではないか。知的財産の非対称性を解消する一番簡単な方法は、知的財産を持っている人間が、持っていない人間に教えることであるからである。この矛盾点は本文に明確な記述があるので容易に理解できる。

問題はもう一つの矛盾点である。それは「反権威主義」の矛盾である。

「反権威主義」とは、1つの権威を盲信することに反対し、個人の自由の獲得を目指し、多様性のある文化・社会の次元を拡大することを目的とするものである。この文章によれば、人々は「誰かに教えられ指導されること」を権威主義的だと非難する。

しかしながら、「誰かに教えられ指導されること」を拒んだ先に行き着くのは、三十行目の記述にある通り、「情報」である。では、「知識」を自己の中に形成することを拒み、「情報」を行動規範にすると何が起こるのだろうか。

情報というものは、断片的であり、連続性がなく、独立した存在である。そして、情報は、「知識」に組み込まれることがなく「情報」のままであり続けるのであれば、自己の中に蓄積することができない。

その結果として、知識を拒み情報を行動規範とする人間は、規範とする情報を次々に乗り換えてゆくことしかできず、情報に支配されるだけの存在になってしまう。

自己の中に知識という教養の軸がないと、情報の取捨選択ができず、膨大な情報に振り回されるだけになってしまい、明確な自己の意思というものを持つことができなくなってしまうのである。

このような生き方の中に個人の自由は存在しない。自分の意思で行動し、個人の自由を獲得するためには、知識を自己の中に形成し、情報を“主体的”に知識に組み込んでゆくことが必要である。権威主義を否定し、個人の自由を求めた結果が、「自由という名の不自由」であり、これが矛盾しているということなのである。

今回はあまり設問には絡んでいないが、慶応義塾大学経済学部ではこの手の矛盾点を見抜く力を求められることがしばしばある。

経済学部に限らず、法学部、文学部、総合政策学部などでも求められる力なので、日頃からこのような問題点を見抜く訓練を行う必要があるだろう。

三十行目

断片的な情報は現実そのものの多面性に対応し、それを集めた個人よりも対象の現実に忠実であるように見える。じっさい情報は無署名で提供されることが多く、俗に言えば頭よりも「足で集めた」ように見える。知識に比べて情報には自己拡張の匂いが薄く、消費者の側から見て、教えられ指導されたという印象を受けることが少ない。これについては日常語の慣用が示唆的であって、知識はしばしば「授ける」ものであるのにたいして、情報はたんに「伝える」もの、ときには「さしあげる」とさえ言えるものなのである。

断片的な「情報」は、現実そのものの多面性に対応し、現実に忠実であり、しばしば無署名で提供されるため自己拡張の匂いが薄い、という記述がある。これは情報の最も大きな特徴である「客観性」を表している記述である。

そもそも「知識」は自己の中にある知識を出発点とし、その知識に絶えず新たな情報(他者の他者性)を組み込むことで拡大してゆくことを特徴とするものであった。この知識のあり方は、情報を知識に組み込む個人の営みであり、それぞれの個人の内部で行われることであるため、当然主観性が入り込むことになる。どの情報を知識に組み込むかなどの判断は全て、知識を持つ個人に委ねられる。主観性が入り込むという点で、知識というのは「署名入り」の知だということになる。この「署名」に対して、権威主義的な感じがするということで、知識が好まれなくなったということなのである。

一方情報は「客観的」な知のあり方であり、誰かの主観により知識に組み込まれ「連続性」や「分節性」を見出される“前”の状態であるので、そこには誰かの「署名」は記入されていない。なので「誰かに教えられている“感”」がないということで好まれるようになった。また、「現実に忠実」とあるが、これは情報が100%客観的な状態であるからである。情報が知識に組み込まれる際には、断片的な情報に連続性や分節性を見出すプロセスにおいて、主観的な解釈が加えられる。「事実は1つだが、真実は人の数だけある」とよく言われるが、それは解釈の主観性のばらつきを表しているのである。

例えば、男女関係を考えてみよう。彼氏が彼女にビンタをされたとする。これはまさしく客観的な「事実」であり、この文章では「情報」と呼ばれるものである。この事象に対して、ビンタをされた彼氏は考察を加える。「なんでビンタされたのかな。他の女の子とデートに行ったからかな。LINE返さなかったからかな。誕生日忘れてたからかな。」とその事実に対する自分の中の主観的な「真実」を見い出す。これが断片的な情報に脈絡を与える「知識」のあり方である。この解釈の仕方は人によってばらつきがあるだろう。友人に聞いてみたら別の「真実」が生まれるかもしれない。この統一性のなさも知識が好まれない理由の1つなのである。

近代においては「客観性の獲得」というものがかなり重要視された。近代というのは科学の時代であり、客観的な指標を用いて数値化することで、物事を客観的に考えるというのが主流であった。主観性の介入は徹底的に排除されるようになった。というのもこの科学の行いによって、全知全能の神に近づけると考えたからなのであった。神は全ての物事を瞬時に理解できる。その神に近づくためには、人間は事象を、科学という客観的な指標を用いて各項目を分解し、最終的にそれらを合わせることで全てを理解できると考えていたのであった。なので、主観性は正確な理解を妨げるものとして嫌われたのであった。

近代の客観主義に関しては一通り理解しておくことを勧める。現代文・難関大小論文においては頻出であり、客観主義に関する理解がないと、そもそもスタートラインに立つことができない。教養の基盤なしに、その場の読解のみで理解することは到底無理である。「客観主義」に限らず、大学側も「近代性」に対する理解がある前提で出題しているので、早い段階から、近代に関する教養というものを養っておくべきだろう。

三十七行目

これに対して、知識はその構造からして権威主義的に見える宿命を負っている。特権や制度による権威づけとは無関係に、それは本質的に情報を脈絡付け、文脈の中で意味付けしようとする意志の力に支えられる。その意志の力は同時に説得しようとする情熱であり、自己の作業を正しいと信じる信念にほかならない。もはや自明の普遍的な価値観がなく、社会的使命感も相対化された現代にあって、自立で知識を統一しようとする意志はますます気負いがちになる。そうした気負った意志と信念が二十世紀の市場社会に現れた時、それが大衆の嘲笑を浴びないまでも、冷淡な視線に迎えられるのは当然だといえよう。

知識というものに対して、自明の普遍的価値観、すなわち、客観的な価値観が存在せず、知識を拡大するモチベーションとなるのは、主観的な意志の力であるという記述であり、「知識」には、主観性が入り込むという話の繰り返しである。また、「二十世紀の市場社会」とあるが、これもまさしく客観主義の時代であるため、「知識」が受け入れられなかったということである。

設問A

「知識の特徴を知恵および情報と比較した上で」という条件が付されているので、課題文を整理して、知識・知恵・情報の特徴をつかみ、それぞれの関係性を考える必要がある。この設問で「知識の特徴を知恵および情報と比較した上で」という条件があるのは、この難解な課題文を正しく理解できているかを問うているのであろう。
「知恵」、「情報」、「知識」の特徴を確認する。

<知恵の特徴>
・深い意味での実用性がある。
・新しさや多様性とは縁がなく、自己革新を起こすことはない。
・永遠であり、唯一であり、統一性を保つ。

<情報の特徴>
・断片的であり、それぞれが独立している。
・普遍的・客観的であり、対象の現実をありのままに映す。
・自己の中に蓄積することはできない。

<知識の特徴>
・断片的な情報に意味付けを行う。
・自己の知識に新たに情報を組み込む形で拡大する(自己革新)。
・主観性が入り込む。
・自分の意思を持つための軸となりうる。

300字という字数制限の中でこれら全てに言及するのは不可能なので、焦点を絞って言及する必要がある。

まず、大学での教育の目的は、知識を授けることであるという見解についてどう考えるか、なので、どのような場面で知識が求められるのか、またはどのような場面で知識が必要ないのか、というのを考えなければならない。

ただ今回は明確に知識の必要性が課題文で言及されており、その記述に大きな矛盾点がないので、「知識を授けること」に賛成という立場で書くほうが書きやすいであろう。

また、知識は必要なく、情報や知恵を行動規範にすれば良いというのには無理がある。近代の行き過ぎた客観主義がもたらした多くの問題を考えれば容易にわかることである。

この今の時代において、知識を拒み、知恵や情報を頼りに生きていくという主張は擁護しようがない。教養を疑われることであろう。仮に反対意見を書くとすれば、知識そのものを否定するというやり方ではなく、「大学での教育の目的」という部分を否定すべきであろう。

「大学での教育の目的は、知識を授けることである」という見解に賛成する根拠として最も身近な例は、この情報過多の時代背景であろう。

今日スマホの普及により、誰もが簡単にいかなる情報にもアクセスできるようになった。この情報網を使いこなせば、これまで不可能であったことも可能になるかもしれない。

しかし、情報を使いこなすための知識の軸を自己の中に持たないのであれば、膨大な情報を前にして何もすることができず、情報をそのまま鵜呑みにして、その情報に沿った行動しかできなくなる。情報に振り回されるだけの存在になり、主体性を喪失するだろう。情報に支配され、また情報の背後にある権力に支配されるだけの存在になる可能性がある(従属主体化)。

これは近代的主体のあり方そのものであり、できあいの規範を超えた側面に触れることはない。今日のような情報社会において、情報の背後に権力が働いているとすれば、われわれがスマホを通してアクセスすることのできる情報には最初から制限があり、権力を持つ者にとって都合の悪い情報はあらかじめ私たちの目に入らないようになっているかもしれない。

そのような情報を絶対化する生き方の中に個人の自由は決して存在しない。無数の情報にアクセスすることができるので自由であるかのように思えるが、実際は狭い箱庭の中で支配されているのかもしれない、自由という名の不自由である。こうした人間のあり方が問題であることは言うまでもないだろう。

このように情報に支配され主体性を喪失しないためにも、知識が必要であるということである。情報の取捨選択を主体的に行い、知識を拡大してゆくことが求められるのである。

設問B

「知識は人間“だけ”によって創られるのだろうか」とあるので、当然コンピュータと対比を考えることになる。

知識のあり方は、自己の中にある知識に新たな情報を組み込み拡大してゆく(自己革新してゆく)ことである。この知識の創造の条件は、自分のもつ知識に、その知識を超えた側面を組み込むことである。これが可能なのは実存としての人間だけなのではないか。

自ら蓄積した知識を行動規範とし、その規範を超えた側面に触れた時、その側面を新たな情報として、自身の知識に上書きする。ロゴスとパトスを交互に作用させ相互交渉をすることのできる実存の人間にしか不可能である。一つの規範を盲信し、その規範を超えた側面を受け入れない近代的主体のあり方では、知識の創造は不可能である。またコンピュータについてであるが、これに関しては、一概に答えを出せるものではない。

従来のコンピュータというのは、人間によってプログラムされた規範の中で行動し、プログラムされていないことはできなかったり、また、新たに情報を受け入れることができても、その新たな情報に秩序を与えることはできず、独立した情報を集めるに過ぎなかった。しかし、今日の人工知能は、膨大な情報を瞬時に参照し、それぞれの独立した情報に自ら秩序を与えることができる。

ガン患者の腫瘍の法則性を、人間の目では気づかないレベルで、抽象化して知識に組み込み、またその知識を使って、情報に秩序を与えるのである。これは知識を創造していると言えるのではないか。

しかしながら、人口知能の研究は進んでいるものの、未だ不十分な点はいくつもある。例えば、人工知能は例外を例外として捉えることができず、例外を省く作業は人間が行なっていたりする。

このような点を考えると、人工知能は、人間と同じレベルで知識を使いこなしているとは言えないので、コンピュータにも知識の創造ができると言い切ることはできないのである。

慶應義塾大学 経済学部2015年【全体講評】

(試験時間60分)

大問数・解答数        大問数:1題 解答数:2問

難易度の変化(対昨年)    変化なし

問題の分量(対昨年)     変化なし

出題分野の変化        なし

出題形式の変化        なし

新傾向の問題         なし

総評

設問はA・Bの2問。設問Aは、課題文の読解に加えて意見論述を求める問題。設問Bは、意見論述の問題。例年は、設問Aが課題文の読解、設問Bが意見論述という構成だが、今年度はAとBの両方で意見論述が求められる形となった。

課題文は知識・情報・知恵の性質について説明する文章であり、特に「知識」と「情報」の違いを正しく理解できるかどうかがカギとなる。知識=情報だと考えている人が多いが、実際は知識と情報は異なっており、それぞれの知のあり方を考えさせる出題であった。

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ABOUT ME
Hiro
慶應義塾大学総合政策学部1年。1年間の浪人を経て、英語・小論文受験で合格しました。通っている学部はSFCですが、本キャンの受験経験があるので、本キャンの小論文の解答解説をメインで書いてます!

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