こんにちは。慶應義塾大学総合政策学部2019年度入学のHiroです。
今回は、知識と情報の関係性について話していきたいと思います。
この記事の目次
はじめに
前回は過去問演習、お疲れ様でした!
過去問に初めて取り組んだという人は、かなり疲れたのではないかと思います。ただ受験勉強は、毎日疲れるくらいでちょうどいいと思います。それだけ、自分にとって学びになるものが多いということです。
逆に疲れない勉強というのは、自分にとって学びになっている部分が少ないということです。“疲れ”というのを指標にするのもいいのではないでしょうか。
さて、今回は知識と情報について話していきたいと思います。これも今までやってきた近代的主体と実存に結びつけることができます。
小論文においては、論述する際の自分の型を持つことが大事です。一つの大きな軸を作り、そこから派生させていくというやり方が最も効率的です。
今は大木の幹となる軸の部分を育てている途中です。軸がしっかりと出来上がれば、そこから派生させることはそこまで大変なことではありません。本当にこのやり方で大丈夫なのかと不安になることもあると思いますが、下手に浮気せず、一つの武器を磨き続けてください。
これは他教科にも言えることです。いろんな参考書をつまみ食いするよりも、一つの参考書を極めた方が成績は上がります。
受かっていく人ほど、そういった傾向にあるということを覚えておいてほしいです。
小論文入試における知識と情報
知識という言葉と、情報という言葉を知らない人はいないと思います。
ただ小論文入試においては、この言葉に対するより深い理解が求められます。その話を今回はしていきたいと思います。
知識と情報の対比
「知識と情報の違いは何か」と問われた時、その違いについて答えることができるでしょうか?この先を読み進める前に、少し考えてみてください。
この情報と知識には明確な区別があり、対比関係となっています。
ではどのような対比かというと、それは近代的主体と実存の対比です。絶対ではないですが、今の段階では、知識は実存が持ち、情報は近代的主体が持つと捉えておいてください。実際は、近代的主体は情報しか持たないことに変わりないですが、実存は知識と情報の両方を扱います。
この点についても詳しく説明していきたいと思います。
情報について
情報という言葉の意味に関しては、日常生活で我々が使う「情報」とそこまで変わりはありません。ただその本質について深く考える必要があります。
結論からいうと、「情報」は断片的なものになっています。
人間は「情報」だけで物事を判断することはできません。自己の中に蓄積された経験に基づいて情報を取り扱うのです。
小論文の学習であることは一度忘れて、日常生活のことを考えてみてください。断片的な情報が与えられたらまず、過去の経験や持っている知識を基に、その情報を扱うと思います。そこには主観的に「情報」を解釈するというプロセスが含まれると思います。
情報というのは、完全に客観的なものです。完全に客観的なもので、自己の意思決定をすることは本来できないはずです。客観的な情報に主観的な解釈を加えることで初めて、主体的な意思決定に用いることができます。
先に知識の話も少しだけしてしまうと、情報というのは、客観的で断片的であり、それを主観的に解釈して生まれるものが「知識」なのです。「知識」の状態にすることで、主体的な意思決定ができるようになるのです。
知識について
知識というのは、断片的な情報に“秩序”を与えたものです。
断片的な情報と情報の間に関係性を見出し、主観的に解釈し、それを自己の中に蓄積する、それが知識のあり方です。断片的で客観的なものが情報であり、情報はそこらへんに散らばっているものと考えることができます。
その散らばっている情報を、自らの手でかき集めて、自分のやり方でまとめて、自分の中に蓄積するものが知識です。自分の手でかき集める段階で主観的な情報の取捨選択を行い、自分のやり方でまとめる段階で断片的な情報に対して、主観的に秩序を与えるので、知識には主観性が入り込むということになります。
情報を内面化するということ
冒頭で近代的主体は情報だけを持つという話をしました。近代的主体は知識を持たない=近代的主体は経験知を持たないということです。
近代的主体は、情報を主観的に解釈することなくそのまま内面化する。近代的主体は情報しか持たないというのはこういうことです。
情報単体には連続性がありません。すなわち、情報そのものは経験知のように連続的にアップデートされることがないということです。断片的な情報を乗り換えて生きていくことしかできません。自己の中に経験知を持たないので、絶えず流れてくる情報を主体的に処理することができず、情報を絶対化せざるを得なくなってしまっている状態です。
知識は連続性をもつもの
知識は、実存の人間にしか蓄積することができません。なぜかというと、自らの知識に新たな情報を組み込むということは、自己規範を超えた他者の他者性に触れることだからです。
ここまで曖昧な表現でわかりにくかったと思いますが、ここで全てが繋がると思います。
知識を創造するということは、断片的な情報に秩序を与えるということで、それは自己の知識に他者の他者性を組み込み続けることなのです。だからこそ近代的主体は知識を蓄積することができないのです。
知識とは連続性を持つものです。常に他者の他者性を組み込み続け、アップデートし続ける必要があるのです。
知識と情報のまとめ
情報は断片性・客観性を持つものであり、知識は連続性・主観性を持つものである。
知識を創造するというのは、断片的な情報に主観的に関係性を見出し、秩序を与え、自己の中に蓄積するということである。知識の蓄積は、自己の知識に新しい情報を常に組み込み続けるということで、それは自己規範を超えた他者の他者性に触れることと等しいので、実存の人間によってのみ可能である。
よって、知識=実存の経験知である。
最後に
いかがだったでしょうか。
知識と情報については、小論文入試では頻出なので絶対に押さえておいてください。説明が少し抽象的でわかりにくい部分もあるかと思いますが、頑張って理解しきってほしいと思います。
特に、慶応経済や慶応環境情報の小論文では、この知識と情報の考え方がドンピシャでハマる過去問があるので、もう少ししたらそちらも皆さんにやってもらおうと思っています。そもそも大学というのは、知識を授ける場なので、このような出題がなされるのは当然かもしれません。
次回は、「知識と情報」と、今日の情報社会との関係性について話していきたいと思います。
今回の「知識と情報」の考え方を情報社会との関係性の中で論述すれば、確実に合格点に届きます。出題によっては満点近い点数が狙えると思います。この知識と情報に関する出題は、課題文の出方がだいたい決まっているのと、書くべきこともある程度は決まっているので、本番で出題されたらかなり得点源となると思います。そういった意識を持って隅々まで目を通してほしいと思います。
慶応経済と慶応環境情報で知識と情報に関する出題があったという話をしましたが、これらの出題はほぼ同じです。同じような論理で同じような結論に至ります。
字数の問題で、環境情報の方が自分の知識や具体例を織り交ぜなくてはならないという点で難易度は高いです。ただそれくらいの違いしかありません。大学側が求めていることというのは、学部や年度を超えて、そこまで大きな違いはないということです。
今回は以上になります。
次回は、「情報社会への適応」について話していきたいと思います。