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慶應義塾大学 環境情報学部1997年【問い】
次の資料1〜4はすべて「知識」と「情報」について述べたものであるが、これらの資料のそれぞれの論点に必ず言及しながら、来たるべき21世紀の社会における「知識」と「情報」の関係について1000字以内で論じなさい。
慶應義塾大学 環境情報学部1997年【答案例】
「情報」と「知識」のそれぞれの特徴について考える。まず、「情報」は、客観性を持つものであり、人間の主観的な解釈のプロセスを含まない。それは、具体的な事実の生起についての伝達であり、人間の内面的世界に蓄積されるものではなく、意思決定を行うための道具として用いられる。一方「知識」は、断片的な情報に対して主観的な解釈を加え、それぞれの情報間の関係性を見出し、秩序を与えたものである。知識は、人間の主観的内面世界での思索を伴いながらも、個人の主観を超え、客観的存在になりうるのである。
これからの時代においては、コンピュータの技術進歩により、情報の環境化が進むだろう。しかしながら、知識を持たない人間は、この情報環境に適応することはできない。主体的に物事を考え、理解し、判断するためには、軸となる知識が必要であり、知識を持たないのであれば、絶えず流れてくる情報に、そして、情報の発信者である「グーグル」等のグローバルな権力により、支配され、主体性を喪失しかねない。知識は、情報を素材とした新たな価値の創造であり、実存としての人間と人間、他者としての環境との関係性からしか生まれないのである。そのため、情報環境を生き抜くためには、価値の創造を放棄し情報環境の中に自閉するのではなく、実存の人間として、他者との相互交渉を繰り返し、情報を超えた側面(他者の他者性)にパトスで触れ、その側面を情報に組み込み、情報に新たな価値を加え、それを自己の知識として内面的世界に蓄積してゆくことが必要なのである。
そして「ネットワーク」は、その知識や情報の共有の次元を広げうるのではないだろうか。官僚制的な組織とは異なり、ネットワークでは、共有する情報に対して新たな側面を加えることが可能である。あるメンバーの自己解釈により生まれた知識を、「メンバーが共有する情報」として、ネットワークに投じることができる。これにより、メンバーが共有する情報は常にアップデートされ、メンバーの行動規範は常に拡大し続ける。このような相互的なあり方は、従来のテレビやラジオのような1対n型のメディアでは不可能であった。インターネットの対話性は、ネットワークを通じて人間の文化や社会の次元を拡大し、人間の生活をより豊かにしうると言うことができるのではないだろうか。 (962字)
慶應義塾大学 環境情報学部1997年【課題文の整理】
資料1
・インターネットにより、自由に効率よく知識や情報の共有ができる。
・コンピュータによるインターフェースは、対話型の情報提供を可能にする。
・権威に裏付けられない膨大な情報が有害になる可能性。
・個人の視点による、情報と知識の摂取と提供 → 個を尊重した新しい社会
資料2
・組織・市場 ←―→ ネットワーク
・メンバー間の規範・情報・知識の共有
・ネットワークの条件=有用な知識や情報がメンバーたちによって投入される。
資料3
・福沢の「智恵」=主に叡智・知性
→物事について考え、理解する際に必要となる軸の部分
これがないと、物事を主体的に判断することができない
・情報=客観性をもつ
・知識=断片的な情報に秩序を与えたもの。自己解釈により生まれる。
情報間の関係性を見出す。
・情報社会において、情報最大・叡智最小になる危険
資料4
・知識(人文・社会科学) ←―→ 情報(自然科学・工学)
・知識=人間の精神作用としての認識によって主観の中に取り込まれたもの
人間の主観的内面の思索による加工・解釈・推理のプロセスを含む
・人間 ←―→ コンピュータ
→人間は知識を創造することができるのに対し、コンピュータはあらかじめプログラム化された客観的な領域しか扱うことができない。
・知識=経験的知識・先験的知識・超越的知識
・知識は、人間の主観的内面世界での思索を伴いながらも、個人の主観を超え、客観的存在にもなりうる。
・情報=知識の素材・具体的な事実の生起
=人間の内面的世界に蓄積されない
=意思決定を確実にするための手段・道具としての価値
・インターネットの普及により、創造的なものが生まれるのかは疑問
↓
結局、知識の生産は、人間の主観的世界の中で行われるのではないだろうか。
慶應義塾大学 環境情報学部1997年【課題文の解説】
それぞれの資料において、表現や細かい特徴に多少の違いはあるものの、「情報」と「知識」は対比するものとして記述されている。まずはそれぞれの特徴を見ていくとする。
情報と知識の特徴
まず「情報」は、客観的なものであり、人間の主観的内面世界における加工・解釈・推理のプロセスを含まない。三つの特徴として、具体的な事実の生起についての伝達、人間の内面的世界に蓄積されない、意思決定を確実にするための手段・道具、という記述がある。
これに対して「知識」は断片的な情報に対して、主観的な解釈により秩序を与えたものである。課題文の記述によれば、人間の精神作用としての認識によって主観の中に取り込まれたものであり、人間の主観的内面の思索による加工・解釈・推理を伴うのであるが、個人の主観を超え客観的存在にもなりうるのである。
情報と知識の違い
情報と知識の違いを正確に捉えるために、資料3の「情報最大・叡智最小」について詳しく見ていくとする。
まず福沢諭吉の言う「智恵」は、課題文全体における「知識」のことだと捉えて良いだろう。資料3の文章の筆者は、知のあり方を「情報」、「知識」、「知性」、「叡智」に分けているが、知識+知性+叡智=「知識」と捉えてよい。
福沢諭吉は、物事について考え、理解するためには「知識」が必要だと言っている。これは現代においてもよく言われることである。「知のない者に自由はない」という表現を聞いたことがある人もいると思うが、これはまさしく今の時代において顕著に表れている。ネットリテラシーと言われる能力もこの類である。
すなわち、自己の中に物事を判断するための「知識」がないと、情報過多の時代の渦に飲み込まれてしまい、主体的に行動することができなくなってしまう。ポケモンGOが流行った時に、「人間がスマホに操られている」と揶揄する人も多くいたが、これはまさしく膨大な情報を処理できなくなってしまい、自身の行動を主体的に選択できなくなり、結果としてスマホからの情報を次々に乗り換えながら生きることしかできなくなってしまった人の例である。「情報最大・叡智最小」の状態であり、行動規範とする情報を次々に乗り換えるだけで、自己の中には何も蓄積されていない。
これは、他人によって作られた出来合いの規範を、自己の中に内面化し、それ以外の側面を考慮せず自己の中に何も蓄積しない、近代的主体のあり方そのものである。「情報」は自己の主観的な解釈を含まないので、情報を頼りにして行動すると言うのは、他者により作られた規範をそのまま内面化すると言うことである。
これに対し本来あるべき姿として記述される「叡智最大・情報最小」は実存の人間である。情報は道具として使い、基本的な意思決定は自己の中にある叡智・知性・知識に基づく。
知識の創造のプロセス
まとめると、「知識」と言うのは、実存の人間が、他者との相互交渉の中でパトスで受け入れた“他者の他者性”を、情報に対する新たな側面として組み込んだものである、と言うことができる。
最初は「情報」を自身のロゴスの中に取り入れ、自身の生活の中でその情報を超えた側面に触れた時、その側面を自らの主観による判断で、その新たな側面(他者の他者性)を情報に組み込んでしまう。最初は取り入れた「情報」とその外部の「情報」として独立していた情報同士に、自分の主観による判断で、関係性を見出し、それらに秩序を与える、簡単に言うと統合してしまうのである。「情報」のみによる意思決定だと、物事を正しく判断することができないと言うのは、近代的主体による一義的で限定的な理解であるからである。
一方「知識」を土台にし、「情報」を道具として意思決定を行うことの正当性を主張するのは、実存としてのあり方であり、物事を多面的に深く理解できるからである。近代的主体は自己の中に経験を蓄積できないことを特徴とするが、この「経験」は課題文の中での「知識」、「知性」、「叡智」に一致する。近代的主体は、パトスで他者の他者性を受け入れることをせず、自己規範を絶対化し、その規範を超えた側面に触れないので、自己の中に経験を蓄積することができないのであった。「情報最大・叡智最小」とは、情報を自己規範として内面化した従属主体であり、叡智・知性・知識の部分が小さくなってしまっていて実存の経験領域が最小化してしまっている状態であり、自己規範が「情報」に、そして情報の背後の権力に支配されてしまっていて、主体的な意思決定ができなくなってしまっているのである。
一方で「叡智最大・情報最小」のあり方は、自らの意思決定を主に知識・知性・叡智の部分で行い、その最終判断の道具として、情報を自己規範に取り込むと言うことである。実存の人間は意思決定の際に、自らの経験を頼りにすることができ、情報に振り回されずに、主体的な判断ができる。
設問の要求は知識と情報の関係性について述べよと言うものであるが、知識の創造の過程に実存の人間の相互交渉のプロセスを伴うので、人間のあり方についても当然論述する必要がある。知識と情報の特徴を書くだけではそもそも1000字も書けないであろう。
なお、近代の知への理解を深めたい方は、小論文読解講座で詳しく解説しているので、ぜひお読みいただきたい。
これからの情報社会と知識・情報の関係性
次に、これからの情報社会と知識・情報の関係性について考えていきたいと思う。結論を先に言うと、情報社会を生き抜くためには、我々は実存の人間としていきなくてはならない。
先ほどにも少し触れたが、人間が実存を失い、自己の中に経験を形成することをやめれば、すなわち、物事を理解し判断するための知識を失うのであれば、絶えず流れてくる情報を処理できなくなり、必然的に次々に流れてくる情報を自己規範として内面化・絶対化せざるを得なくなり、最終的には情報に、また情報の背後にある、情報の発信元の権力により、支配されるだけの存在になってしまう。
その権力とは、今日でいうとGoogleなどである。我々は、ネットを使って様々な事柄を検索できるようになり、個人の自由が確立されたかのように錯覚しているが、情報の発信元をたどると全てグローバルな権力により発信されたものである。Google、Facebook、Twitter、Instagramといった権力から発信された情報であり、あらゆる情報にアクセスできるように思えるが、実際のところは、それらの権力にとって都合の悪い情報は最初からアクセスできなくなっているかもしれない。世界中の人々がGoogleと言う巨大な権力により支配されているのかもしれない。
少々都市伝説のように聞こえるかもしれないが、これはかなり現実的である。近代の国家というのは、まさしく同じようなやり方で、国民を洗脳し、支配し、戦争に向かわせたのであった。当時のメディアはテレビやラジオであった。それらのメディアは国家という権力と結びつき、「国民文化」という規範を絶対化した従属主体を作り出してきた。
現代においては、これらの近代の国家性は解体し、グローバル化が進み、個人の自由が確立されたと考えている人も多くいるが、実際は、近代国家の権力がGoogle等のグローバルな権力に取って代わられただけで、現状は全く変わっていないのである。
そして状況は近代国家よりもさらに悪化している。当時のテレビやラジオから流れてくる情報量というのは、かなり膨大ではあったものの、国民の生活領域を完全に埋め尽くすほどのものではなかったように思われる。そのため、その流れてくる情報に対し不信感を覚えたり、自らの実存の経験に基づいて情報の取捨選択をおこなうことは不可能ではなかったはずである。
しかし今日の現状はどうだろうか。現代というのは明らかな情報過多の時代であり、膨大な情報量が人々の生活領域を完全に埋め尽くしてしまっている。自らの実存の経験に基づいて物事を判断したり、情報の取捨選択を行うことがほぼ不可能になっている。
すなわち、自らの行動規範を、情報に支配されてしまっているのである。現に、現代人はすべての行動の根源を、スマホからの情報に持つ。何をするにしてもスマホの情報を頼りにする。自らの経験に基づいて何かを判断することはほとんどない。まさに「情報最大・叡智最小」の状態である。行動規範を情報に支配されるということは、その情報の背後の権力に支配されるということで、現代人はGoogle等のグローバルな権力に支配されてしまう可能性がある、またはすでに支配されてしまっている、ということができるのである。
だからこそ、情報環境を生きるためには、「知識」=経験を自己の中に蓄積し、物事を考えるための軸を持っておくべきなのである。そのためには、情報環境に自閉して、価値の創造、すなわち、情報に新たな価値を加え自らの知識に昇華させること、を放棄するのではなく、実存の人間として、情報環境だけでなく社会環境・自然環境での他者との関わり合いの中で、身体性を持って他者に、そして他者の他者性に触れ、それを情報に対する新たな価値として情報に組み込み、知識を創造し、その知識を経験として自己の中に蓄積してゆくことが必要なのである。
官僚制とネットワークの対比
最後にネットワークという考え方について話していきたいと思う。ネットワークとは官僚制とは真逆の考え方である。
まず官僚制について話していきたいと思う。端的にいってしまえば、官僚制の組織とは近代的主体・従属主体により構成された組織である。官僚制の組織においては、トップの人間が決めた組織の規範・ルール・マニュアルを、メンバー全員が内面化しており、組織のメンバーはその規範に従属しており、それに刃向かうことは絶対に許されない。
トップダウンと表現されるが、会社でいうと「会長→社長→副社長→役員…」というように、上から下に規範が降りてくることを特徴とする。ピラミッド型のヒエラルキーとなっており、皆が同じ規範を内面化し、規範に従属している。この官僚制のあり方は“人間機械”と呼ばれることもある。官僚制の組織の人間は皆同じ規範を内面化しており、仮に誰か一人が抜けても、新しく入ってきた人間にその規範を内面化させれば、組織の生産性には影響しない。
そのため、官僚制の組織のメンバーは、単なる機械のパーツとしての役割しかなく、いつでも交換可能である。「言われた通りに動くことのできる人間」それだけが、官僚制の組織には求められるのである。
組織の規範を内面化した従属主体は、その規範を超えた側面を無視し、会社のマニュアルを超えたことは絶対にしてはならない。すなわち、官僚制のメンバーは、規範を超えた側面(他者の他者性)に触れることは許されず、規範に対して“異議”と唱えることもできない。
これは何を意味するのか。それは、官僚制組織の規範はアップデートされないということである。組織が近代的主体で構成されているのだから当然である。
これに対し、ネットワークは実存の人間により構成された組織ということができる。課題文の記述にはネットワークの特徴として、
有用な知識や情報がメンバーたちによって投入され続ける
とある。これは、官僚制組織の様に組織の規範に対する異議、すなわち、組織の規範を超えた側面(他者の他者性)を、ネットワークに投げかけることができるということである。
すなわち、メンバーの“異議”が認められるということなのである。官僚制はトップダウンであったが、ネットワークはそのヒエラルキー構造が解体しフラットなあり方である。そして、ここで資料4の知識に関する記述
知識は人間の主観的内面世界での思索を伴いながらも、客観的存在になりうる
ということの意味がわかる。
言い換えれば、知識とは主観的内面世界で創造されるものであるが、それは主観的なものとして自己の中にとどめておく必要はなく、その知識は客観的なものとして他者と共有することも可能であるということである。ネットワークの中では、メンバーは「共有された情報」を絶対化するのではなく、実存の人間として自身の生活の中で、その情報を超えた側面(他者の他者性)に触れ、それを持っていた“情報”に組み込むことで、“知識”に昇華させ、自己の中に蓄積するあり方を取る。
ただ、この新たに創り出した知識を自己の中に留めておくのではなく、ネットワークに「新たな情報」として流すことができる。ここで注意しておきたいのは、自身の主観的内面世界で創造した知識は、自分で使う分には「知識」であるが、他者の手に渡った時は「情報」として扱われるということである。
ネットワークでは、メンバーが創造した知識を「情報」として共有することができ、これは組織の規範を常にアップデートすることができるということである。常に規範を超えた側面を規範に組み込み続け、規範を拡大し続けることができる。これがネットワークの強みである。官僚制は、規範が拡大することがないという点で、「大きな近代的主体」であり、ネットワークは、常に規範を超えた側面を受け入れ続け規範を拡大していくという点で、「大きな実存」とも言える。
慶應義塾大学 環境情報学部1997年【回答の書き方】
課題文の記述を考えると、答案の大筋としては、
「知識と情報の特性」
↓
「これからの情報社会を生きるための人間のあり方」
↓
「ネットワークのあり方で人間はより豊かになる」
というロジックが一番書きやすいのではないでしょうか。
課題文の要求が「情報と知識の関係について」とかなり抽象的である上に、字数が1000字と多いので、先に筋道を立ててから書き始めないと、途中で題意を見失い、自分で何を書いているのか分からなくなってしまいます。そのため、先に大筋をメモしておくことをオススメします。
先に全てを見通すのは厳しいという人は、段落ごとに考えても良いでしょう。段落を書き始める前に、その段落では何をテーマとし、どの様な結論に至るのか、何を具体例として出すか、そういったことを箇条書きでもいいので、メモを取っておくことをオススメします。
具体的な内容についてですが、課題文の内容は常に意識するようにしたいです。例えば「ネットワーク」の話などは、一度読んだだけではイマイチ内容をつかむことができず、無視したくなるでしょう。ただそういう時にこそ、「なぜ課題文の中でこの話題が扱われているのだろうか」と考えてみてください。
課題文とは、大学側からのメッセージであり、「こういったことに問題意識を持った学生に入ってきてほしい」という意思の表れです。もちろん情報の取捨選択は大事ですが、「よくわからないから無視しよう」という考えは持つべきではありません。原則として、答案作成の際には、課題文のすべての内容を考慮に入れるべきです。
その中で、「こちらの具体例より、こちらの具体例の方が、自分のロジックを立てるのには使えそうだ」という取捨選択をする分には問題ありません。よくわからない内容を無視して、自分の分かったところだけで勝負を仕掛けても合格点には届かないでしょう。採点官は採点のプロなので、適正のない受験生を見抜くことは簡単であるということを覚えておいて欲しいです。
そういうことで、課題文の内容を全て考慮し、論理を立てるとすると、最初に述べたような、「情報社会における人間のあり方」→「ネットワークでより豊かになる」という流れが一番自然なのではないでしょうか。
最後に – SFC小論文対策には教養の養成が不可欠
「こんな昔の過去問をやる必要があるのか」、「今と傾向が違うからやる必要がない」と考える人もいるでしょう。
確かに今のSFCとはまるで傾向が違います。2000年以降のSFCの小論文は、「情報処理能力」を問うている部分が大きいと思います。多くの資料を読ませ、必要な資料を選択し、そこから分析する能力が求められています。
近年のSFCの過去問を5年分程度やれば、立ち回りなどを覚え、答案を書くまでのプロセスが理解できるようになるかもしれません。しかし、そこで習得しているのは“道具の使い方”なのです。小論文に唯一の正解というものはありませんが、小手先の技術だけ習得しても合格点の到達には覚束ないです。
結局、求められている答案というのは、子供じみた性急な論理ではなく、背景知識に基づいた深い考察なのです。合格点が取れない受験生の答案というのは、圧倒的に教養が足りないと言えます。解き方や書き方のテンプレートに当てはめるような答案では、倍率10倍の入試を突破できません。深く物事を考えるためには、目の前の情報だけでなく、課題文に直接記述のない関連事項についても考えなくてはならず、それは教養の積み重ねにより補わなければなりません。まさに、「情報最大・叡智最小」ではダメなのです。
今回の課題文にもあるように、物事を考え、理解し、判断するためには、「知識」が必要なのであり、「情報」はその意思決定を確実にするための手段・道具なのです。そういった教訓を、SFCはすでに示してくれているのです。つまり、「小論文とは、自らの知識に基づいて書くもの」であり、そのための道具として、課題文の情報を使うべきなのです。
よく「小論文は何を書いていいのかわからない」や「課題文の意味がよくわからない」と言う受験生がいますが、その背景の1つは「知識」が足りていないのです。自らの実存に基づいた経験知を持たないが故に、目の前に現れた膨大な情報を処理できなくなってしまっている。これは、情報環境を生き抜くことができない人にも、同じことが言えるでしょう。
SFCが「情報処理能力」を重要視し始めたのも、このような情報社会の時代背景によるものなのでしょう。そしてそこで求められているのは、情報を正しく処理することができるだけの「知識」、すなわち教養、ということです。
SFCの小論文は、教養が乏しい人間はギブアップせざるを得ない出題になっています。実存の人間として、物事を深く考えるために、自己の内面世界に知識を蓄積し続けるということは、小論文入試にも通ずる点があるということを覚えておいて欲しいです。小論文対策で最も重要なのは、論述の基盤となる教養の養成です。